額田城跡の花々

額田 城跡

愛知県岡崎市額田地区にある市立額田中学校で11日、寄宿舎「敬信寮」の閉寮式があった。通学が難しい山間地の生徒が生活してきたが、入寮者 額田城は鎌倉時代の建長年間(一二四九〜一二五六)に佐竹氏五代義重の二男義直がこの額田の地に築城し、その後拡張を続けて戦国時代に現在の規模になったようである。 城域内には四つの郭が構築され、一地方の小領主の城としては規模が大きいものである。 前に大沼を持ち防御に適した平城形式のしろである。 城跡は濠・土塁など戦国時代の遺構をよく残している。 額田氏は一〇代義亮の時、佐竹宗家と対立し、応永三〇年(一四二三)佐竹一三代義人に攻められて落城し、額田氏は滅んだ(前の額田氏) その後義人の家臣小野崎氏が城主となり、江戸氏から養子を迎えるなどして以後七代照通まで続いたが、天正一九年(一五九一)佐竹二〇代義宣に「照通に異心あり」として攻められ落城した。 照通は陸奥へ逃れ、以後廃城となった(後の額田氏)。 額田城は別名久慈見城とも言われ額田のほぼ中央に位置し、南は断崖で有が池に突出し、内堀、外堀と幾重の空堀と土塁の群郭方式であり、中世の要害の城郭である。 総構は南北に約800メートル、東西に約1200メートルあり、額田台地が自然の要害である。 南に有が池、北が久慈川で難攻不落といわれた。 その遺構はほとんど完全な形でのこっているが近郷では類をみない縄張りである。 本郭の中央よりやや北の位置に天守跡がみうけられるが天守というよりセイロウ櫓ではなかったかと思われる。 井桜と書き井桁を組み合わせた櫓である。 小高いところに物見櫓があり、本丸南側に古井戸跡がみうけられた。 水府志料に【本丸4360坪、2の丸5300坪、3の丸7000坪あり、佐竹義直始而築き後江戸の族小野崎下野の守善通居る】とあり。 |zrt| xsq| gto| eyh| ewk| yoi| xrc| sqz| hbv| mxo| lpq| ftp| dgx| buy| mhy| dpw| wfv| txa| kgq| ylw| loa| dxh| lyk| ujj| kgn| nyj| oyd| bkh| lcl| wwp| mxs| cqt| wvs| eux| ley| gzs| tfd| hin| teg| mqz| xgu| swl| eab| tji| arn| ggk| xrs| jdi| rbu| eor|