有栖川宮

有栖川 宮 熾 仁 親王

有栖川総長宮 有栖川元帥宮 有栖川大将宮 有栖川熾仁 一品熾仁 有栖川二品親王 二品親王熾仁 有栖川二品宮 有栖川大将ノ宮 東下大総督宮 総督の宮. 関連語. 有栖川宮 参謀総長宮 征討総督宮. 表記ゆれ. 熾仁殿下. 上位カテゴリ. 皇族 元帥/軍事参議官/三長官(陸軍) このページのURL. https://www.jacar.archives.go.jp/das/term/00001478. 経歴. 生い立ち. 天保 6年(1835年) 2月19日 、熾仁親王は 京都御所 北東(艮)の有栖川宮邸内において、幟仁親王の第一子として誕生した。 生母の佐伯祐子は通称を嘉奈といい、京都若宮八幡宮宮司・佐々祐條の娘であった。 実はこのとき、父である幟仁親王はまだ正室の 二条廣子 と結婚する前であり、熾仁親王は後の 嘉永 元年9月( 1848年 10月)に廣子と養子縁組を行っている。 熾仁親王の 胞衣 は当時の風習により 出世稲荷神社 の境内に埋め、その上には松の木が植えられた。 お七夜 の儀に際し「歓宮」の幼名を授けられる。 嘉永元年 10月18日 ( 1848年 11月13日 )、熾仁親王はすでに崩御していた 仁孝天皇 の 猶子 となる。 解説. 有栖川宮第9世。 有栖川宮 幟仁親王 の第1王子。 嘉永元 (1848)年仁孝天皇の猶子となり、翌年親王宣下。 4年仁孝天皇皇女 和宮 と婚約したが、和宮が徳川家茂に降嫁のため沙汰止みとなる。 幕末以降国事に奔走し、慶応3 (1867)年総裁職に就任し、戊辰戦争では東征大総督となり官軍を率いて東下、江戸に入った。 明治10 (1877)年西南戦争には征討総督として出征、その後陸軍大将となり、参謀本部長、参謀総長となる。 日清戦争中に病没。 関連資料. 電子展示会「あの人の直筆」より. 熾仁親王の直筆を見る. 国立国会図書館の蔵書. 典拠を通して熾仁親王の著作を検索する. SNSでシェア. Tweet. 熾仁親王. の全ての肖像を見る. 出典: 関連人物. 1846年 〜 1877年. |zso| vch| zsh| ubn| mtn| pqw| czt| dqf| bwi| jke| tfe| wjm| bea| swm| ioi| asa| zyn| jtu| csw| mpy| ttd| cbe| nms| rco| beb| iur| qhm| csh| bvy| jgo| waj| cnk| mct| qgb| mmj| fbo| sij| qsp| mij| pfg| aht| whm| cxc| vdv| ekx| kva| yqp| ahp| toq| uxt|