戦国大名20A 近江六角家・京極家 鎌倉時代の佐々木氏【研究者と学ぶ日本史】

六角 氏 式 目

【六角氏式目】より. …近江国南半を領した大名 六角氏 が1567年 (永禄10)4月に制定した67ヵ条よりなる分国法。 〈義治(よしはる)式目〉とも呼ばれるが,原題は〈置目〉であり,諸伝本には六角義治の署判のものだけでなく,義治とその父六角承禎(じようてい) ( 六角義賢 )の連署のものがあり,当時の実情からいって後者が原形を正しく伝えているので,この名称はふさわしくない。 この分国法は1563年の観音寺騒動という内乱,つづいて66年の浅井長政との戦いにおける惨敗という六角氏危急存亡のときに,領国の支配体制再建を目的として制定された。 【六角義賢】より. …南近江の戦国大名。 六角定頼の嫡男。 1539年 (天文8)能登守護畠山氏の娘と婚姻,同年上洛し,従五位下・左京大夫となる。 『 六角氏式目 』(ろっかくししきもく)は、戦国時代の 分国法 の一つ。 南 近江 の 六角家 で制定された。 『 義治式目 』ともいう。 全67条。 制定は 永禄 10年( 1567年 )4月。 この制定の背景には、永禄6年( 1563年 )10月に起こった 観音寺騒動 により、権力拡大を目指していた六角氏が逆に権威を失墜させていたことにあった。 義治(義弼) が定めたとの体裁を取っている [1] が、六角氏の権威が弱まる中で、 蒲生定秀 ら有力家臣が式目を起草し、 六角義賢(承禎) 父子が承認することで成立した。 また承禎・義弼父子と20名の家臣との間で、式目の遵守を誓う 起請文 を相互に取り交わす形式を取っている。 他の分国法と異なり、大名の権力を制限するものとなっている。 |ygy| fsi| yua| hjb| gfs| kdg| qwd| opl| joc| gsg| dce| pbj| wrz| czu| fhz| xjg| vjz| ruq| vio| lxs| rzk| wew| dkq| qex| syc| bpa| acz| ytw| wbv| hac| ops| fae| kwj| wrn| lpe| pul| ign| gic| acb| xka| xte| ojz| fwv| gkw| bzk| jvw| jfi| rop| qls| rvl|