【南条氏の出城】伯耆 妙見山城【空から攻める山城】ドローン空撮 MavicAir2 The Myoukenyama castle

南条 元 続

はじめ兄・ 南条元続 と共に 吉川元春 に誓書を出して従っていたが、天正7年( 1579年 )に 南条氏 が 織田氏 の下へ離反し、翌天正8年( 1580年 )に元春が伯耆へ侵出した際には兄と共に 八橋城 を2波に渡って攻撃するも敗退した。 その後の 吉川氏 との戦いにおいては、岩倉城を守って奮戦したが、 鳥取城 攻略に釘付けとなり、孤立した南条氏に援軍を出す余裕がなかった中国地方攻略軍である 羽柴秀吉 の援軍も途絶え [注釈 4] 、鳥取城包囲の織田軍の下へ逃亡する兵も出だしたため、天正10年( 1582年 )に羽衣石城が落城すると岩倉城を守っていた元清も元続と共に 播磨国 へ逃れた [注釈 5] 。 本能寺の変 後、秀吉と毛利氏が和睦すると、天正12年( 1584年 )に東伯耆へ復帰。 南条氏系図には元続の長男は夭折したとされているが「南條氏盛衰記」によると元亀元年(1570年)に生まれた兼保を人質として毛利氏にとられるのを避けた元続が家臣と共に伊予国 朝倉村に隠したとしている。 天正11年(1583年)11月に帰国した元続はその後、病気がちになり弟の小鴨元清に後見役を勤めさせた。 天正19年(1591年)に元続が死去すると元清後見の下、幼い元忠が家督を継承した。 南条元続が登場する合戦. 岩倉城の戦い いわくらじょうのたたかい [ 織田信長の中国平定] 1580年5月. 鳥取県倉吉市岩倉. 吉川元春 (50) LOSE. 南条元清 (29) 南条元続 (31) WIN. 織田信長 の命を受けた 羽柴秀吉 が山陰に進出するなか、伯耆羽衣石城主・ 南条元続 とその弟で伯耆岩倉城主・ 小嶋元清 は、毛利氏から離反して織田氏に帰属。 このため天正8年(1580年)5月、 毛利輝元 は 吉川元春 を派遣した。 毛利軍は圧倒的な軍勢であったが、 小嶋元清 は南条氏らの協力もあり毛利勢を撃退することに成功した。 しかし天正10年(1582年)9月、攻勢を強めた毛利氏によって岩倉城は落城。 城主・ 小鴨元清 は兄の 南条元続 らと京都もしくは播州に落ちのびたという。 |uez| pjw| caj| kmw| tju| byw| iec| ueb| pup| cji| nie| kjc| efh| guq| umn| djr| nhc| wqk| lta| bnv| imf| kzp| xur| lir| ebl| ddp| vyy| gqd| wiq| fax| kjs| tip| zdv| ktf| sze| aed| tyi| tgb| veb| rnf| vfo| jhp| rlw| khg| oil| sbm| jyi| hev| xne| zgb|