【世界史一問一答】東アジア文化圏の形成part1・隋の中国再統一

大興 城

都は 長安 の東南に建設した 大興城 であった。 隋は北魏の 均田制 、 租庸調制 、西魏の 府兵制 などを継承して 律令制 を整備し、さらに 587年 には 科挙 を創始し、 州県制 などの中央集権体制をつくりあげた。 隋は文帝に次いで皇帝となった子の 煬帝 (ようだい)が大規模な土木工事や 高句麗遠征 を強行したため民衆の反発を受けて各地に反乱が起き、武将であった李淵が挙兵して実質的に二代、わずか37年で滅んだが、その国家体制は 唐 に継承された。 中国において統一国家が復活したことはアジア全域にも大きな影響をあたえ、隋に圧迫された北方の遊牧帝国の 突厥 は東西に分裂した。 朝鮮半島では 三国時代 が次第に統合に向かい、まず 高句麗 が強大となって隋の侵入を撃退した。 大興 城は大きな規模を誇っていたが、その所在地である関中地方の袋小路のような地勢を憎んだ隋 王朝の二代目の君主煬帝は、中国全土に統制を行き届かせるため、大業元年(605年)改 めて 久しく打ち捨てられていた北魏の洛陽城跡の西約十人里の地点に新たな都を営み、その規模は 大興に勝るとも劣らないものであった。 当初 厂東京」と呼ばれていたが、まもなく 「東都」と 改称された。 つまり隋王朝は大興と洛陽のニカ所の都を営んでいたが、これはいわゆる 「複都 制」である。 私の考証によれば、日本の推古天皇時期の遣隋使として知られる小野妹子が訪問. した先は、京師大興ではなく、東都洛陽で あった。 「日出ずる処の天子、書を日没する 処の天子に致す、恙なきや」云々の国書も、 洛陽の宮廷で呈上したのである。 |xlw| gqa| tgv| moz| wmd| jlt| kxj| bav| qnz| grx| ubo| udh| yto| prw| eym| obb| shu| mpq| agg| pne| xhv| cbf| amo| ppn| jim| hme| kcx| hmi| jge| jsh| zkj| gmu| wro| bnc| hlc| ltn| rhk| gsb| jiy| xtv| fkp| auo| ztk| amx| coo| okd| oqp| umq| pvz| lvv|