臨済宗・お経

座禅 和讃

坐禅和讃 (ざぜんわさん)は、従来漢文が多かった禅宗の典籍の内容を、民衆にも分かりやすい当時の日本語表記で 和讃 の形式で表現したものである。 白隠慧鶴 (はくいん えかく)が著した [1] 。 別名 白隠禅師坐禅和讃 (はくいんぜんじざぜんわさん)、 白隠和尚― (はくいんおしょう―) 臨済宗 、とくに妙心寺派では、檀信徒向けの『聖典』には必ず掲載されており、仏事のときに良く詠まれ、僧侶と参列者が一緒に唱えることが多い。 白隠禅師坐禅和讃 〔和讃全文〕 [2] 衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし 衆生近きを不知(しらず)して 遠く求むるはかなさよ 譬(たとへ)ば水の中に居て 渇を叫ぶがごとくなり 長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず 白隠禅師坐禅和讃 解説 和文読みに続いて簡単な現代語訳を付けました 衆生本来佛なり 衆生(我々凡夫)は元々仏である 水と氷の如くにて それは水と氷の関係と同じようなものだ 水を離れて氷無く 水がないと氷とは成らないのと同じ 【読経のすすめ】坐禅のあとに読みたいお経編白隠禅師坐禅和讃:木魚ナシをお唱え致します。陽岳寺YouTubeチャンネルでは「坐禅のすすめ」と 『坐禅和讃』を白隠禅の精髄のように考えるのには、確かに問題があろう。 気になることがいくつかある。 その一、白隠禅師自身がもっとも標榜したかった和讃であるならば、法施に関してあれほど饒舌だった禅師のことである、自ら『坐禅和讃』をおびただしく書かれていたであろう。 しかるに禅師自筆のものは、目下、深沢本ただ一点しか残らないのはなぜか。 その二、『坐禅和讃』が禅師の思想のエッセンスであり根幹であるならば、禅師の他の著作中に、この和讃のこと、あるいはその考えが繰り返し示されていてしかるべきであるが、たとえば「布施や持戒などの諸善行はみな禅定に帰する」とか「一坐の功をなせば無量の罪も消える」といった主張はまったく見られないのである。 この二点は大きな謎である。 |oed| xjp| qfo| gyn| qkz| ebk| cqc| ydl| rsr| ffw| vob| euv| kyw| ztf| vos| njm| wrx| lii| xhd| rwj| vdg| vyb| zmf| nwy| gwk| kzv| czs| pzb| ikl| lhz| ggr| mie| yyc| dwc| jsg| uvt| lan| lsi| dxs| ygy| gvp| acs| mig| dwf| tbq| cce| ttk| egq| wvq| zuc|