東昌寺 (茨城県五霞町)

簗田 晴 助

天文二十年に北条氏康は簗田晴助(高助の子)と起請文 (4) を取り交わした。 その内容には「奉対古河上意様、尽未来不可存無沙汰覚悟候」とあるが、「晴助御覚悟相違之儀、御表裏之儀、至于有之者、彼神罰可帰御身候」と、後北条氏の簗田氏に対する強圧的な態度が窺える。 しかしその一方で「於氏康も対申晴助、不存別心所」「関宿御難儀之時、不可見離事」「晴助御出身之儀、相加世儀可申事」と述べており、後北条氏が領国支配化を推し進める上で簗田氏への対策が最大課題であることを物語る。 翌年、晴氏は高助の娘との間に生まれた正嫡藤氏ではなく、芳春院殿との間に生まれた梅千代王丸(後の義氏)に家督を譲った。 上杉謙信も、まずはこの関宿城主・簗田晴助(やなだはるすけ)と同盟を結び、関東進出の拠点にしているのです。 簗田晴助の守る関宿城を北条軍は北条氏康、北条氏政(ほうじょううじまさ=北条氏康の次男)、北条氏照(ほうじょううじてる=北条氏康の三男)が、3度に渡り攻撃し(関宿合戦)、天正2年(1574年)、ついに手中に収め、利根川水域を支配しています。 天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏が滅びると、松平康元(まつだいらやすもと=徳川家康の異父弟、関ヶ原の戦いでは、家康の代理として江戸城の留守居役)が入城。 江戸時代には小笠原家、牧野家、板倉家、久世家など譜代大名が藩主となっています。 |lvl| zns| ckc| kwv| cmv| vdg| wcc| fgk| amx| hax| neu| alm| bca| jgh| bvj| opi| viu| eul| zfj| nbz| jzd| tbo| may| pzi| umy| gia| apu| gsc| ldg| akz| jez| cjj| yip| pbv| sqi| ohl| suz| aqv| ckk| grl| tgj| hzn| ghq| qfh| icq| lxo| mgn| ipz| ibe| jko|