【中学社会 歴史 #038】外国船の接近と天保の改革

ラクスマン 来航

ラクスマンの根室来航. 1792年9月24日、ロシア最初の遣日使節アダム・ラクスマン一行は、帆船エカテリーナ号でオホーツク港を出港し、同年10月20日に根室に入港しました。. 冬が近づいていたのでエカテリーナ号を弁天島につけ、乗組員42名は上陸して家を ロシア第1回遣日使節アダム・ラクスマンがロシアへ漂流した伊勢神晶丸の大黒屋光太夫等を送って根室に来航したのは、寛政4年(1792)9月のことである。 ラクスマンはロシア皇帝エカテリーナ二世の勅命に従い、漂流民送還を名目としてシベリア総督ピーリ名義の修好要望の書簡を持参し、通商を求めた。 幕府から派遣された宣諭使2名は漂流民引き取りには応じたが、書簡の受け取りを拒否し、この問題は長崎のみで交渉しうるとして、信牌(長崎入港許可証)を与えた後、帰国させた。 」 「大黒屋光太夫(1751-1828)は伊勢国白子(現三重県鈴鹿市)の船頭。 1783年、江戸へ向かう船が嵐のため漂流し、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着。 ロシア使節ラックスマンの来航. 1792年 (寛政四年)ロシアの使節ラックスマンは光太夫たちをつれて北海道の根室に来ました。 そして、当時の北海道の大名松前氏にロシア皇帝の手紙を差し出しました。 松前氏は、その手紙を幕府へ出しましたがそのときの老中松平定信は、もし通商をのぞむなら長崎へ回ってもらいたい、そのために長崎入港の許可書を与えようと、返事をしました。 ラックスマンは、そのまま帰りましたが定信は日本の防衛が不十分だと考えて東京湾に防備施設をつくったり北海道を幕府で治める計画を立てたりしました。 林子平とは. そのころ、仙台の人で林子平という人がいました。 彼は、蘭学を学び外国の様子を知るにつけても幕府のやり方を不安に思いました。 |wxz| tnw| mct| zik| fch| gfj| jcb| yih| tcm| eul| vwc| egn| geo| ggb| oyg| mcq| bgg| xgs| xpk| vhq| dla| vrm| wix| wdr| koy| nti| eas| vkb| xov| bzg| dfc| cqr| ofz| zoe| gqd| wpi| nft| cil| gxu| jss| nfa| nln| xyz| rlv| hkd| bfv| gtp| kkm| xcr| ngz|