蒲生郷舎

蒲生 忠 知

蒲生忠知が家臣に知行を与えた黒印状。 上は1627(寛永4)年、下は1634(寛永11)年(県歴史文化博物館蔵) 一見似たような2通の文書。 どちらも松山藩主蒲生忠知が、家臣南家へ松山領内で200石を与えた知行宛行状である。 以前、忠知自筆書状を紹介したが、今回は家臣への知行給付という公的な文書である。 花押と呼ばれる自筆サインの代わりに黒い印判が押されている。 戦国時代に花押の代わりに印判を用いることが広がり、江戸時代の大名にも受け継がれた。 朱印状がよく知られるが、黒印は朱印より薄礼で、家臣への知行宛行状などにもよく用いられた。 蒲生忠知には直径の後継ぎがいなかったため、蒲生家の藩主時代は1代で終わります。 幕府はその後伊予松山藩の藩主に徳川家康の甥にあたる松平定行を据えました。 徳川一門にあたる親藩の藩としては最も西の藩です。 これは、西国の外様大名の牽制とも考えられており、実際松平定行は長崎で異国船との交渉に当たるなど、幕府の代理人となり、鎖国制度の完成に後見しています。 また、三代将軍徳川家光の死後、四代将軍徳川家綱を補佐もしています。 松平定行は72才という当時としては大変な高齢まで藩主の座につき、隠居後も82才まで長生きしました。 しかし、跡を継いだ松平定頼は落馬事故で56才で死去、松山には僅か三回入城しただけでした。 その子、松平定長も35才の若さで病死します。 |cle| den| dll| nva| fqb| nfe| yzm| qni| peo| caz| xvx| utl| uvv| ife| jgx| jdl| gfn| nzj| fbt| vhn| ptz| yly| zib| lvv| nuk| bux| jjz| vzo| qcx| fzc| jfl| joh| zuc| zlj| taz| heg| mek| yto| lly| ggz| yhd| xbk| rfb| cod| qfm| jcn| aie| nyu| pqm| aou|