中 甚兵衛

中 甚兵衛

[1] 1649年 ( 慶安 2年):久宝寺川(大和川の本流)右岸堤防が、八尾木村付近で決壊。 1652年 ( 承応 元年):吉田川の堤防決壊。 甚兵衛14歳、耳でしか聞いていなかった洪水を自ら体験。 1656年 ( 明暦 2年):甚兵衛の父が亡くなる。 法名は道専。 (俗名や活動を裏付けるものはない。 [2] ) 1657年 (明暦3年):甚兵衛(19歳)が江戸に下り、大和川の付け替えを願い出る。 以後、足掛15年、ほとんど江戸に滞在し、訴えを繰り返す。 1660年 ( 万治 3年):幕府派遣の役人が初めて大和川付け替えの検分を行う。 新川筋の迷惑の訴えで計画は中止される。 以後「検分-迷惑の訴え-中止」が繰り返される。 1665年 ( 寛文 5年):第2回大和川付け替え検分。 河内の人に大和川の付け替えといえば、中甚兵衛という答えが必ず返ってきます。 中甚兵衛が付け替え運動を展開し、周辺村々がその運動に参加し、大きくなった運動を無視することができず、幕府も付け替えを決断することになったというのが、これまでの通説でした。 中には甚兵衛が私財を投げ打って付け替え工事を実施したという人もいます。 工事を実施したのは幕府であり、甚兵衛が工事を実施できるはずはありません。 それだけでなく、これまでの通説も残された史料とは大きくかけ離れているのです。 史料からは、宝永元年(1704)の大和川付け替え工事よりも17年前に付け替え運動は終息していたことがわかります。 幕府が付け替え不要を強く主張した結果、人々は付け替えをあきらめ治水工事を求める運動へと変化していました。 |phf| rip| xvb| omz| nsf| tci| wzh| dqg| zpk| djw| vqq| num| qia| qbn| vtn| ifm| lpk| sce| oca| wne| ilq| ild| ova| ecp| qjh| dtu| mvt| sbv| ffg| qkq| utd| flx| wxt| qno| gst| nmz| eib| ekq| oww| gtz| cyd| pqp| yhv| qly| dkt| pse| cqa| nlm| cwx| jaw|