今川 義忠

今川 義忠

今川 義忠 (いまがわ よしただ)は 室町時代 から 戦国時代 の 武将 、 守護大名 。 駿河国 守護。 駿河 今川家 第8代当主。 今川義元 の祖父にあたる。 生涯. 家督相続まで. 嘉吉 3年( 1441年 )、 嘉吉の乱 に際して父・範忠の名代として1,000騎を率いて 尾張国 まで出陣している [注釈 1] 。 康正 2年( 1454年 )の 享徳の乱 では、 室町幕府 より 鎌倉公方 ・ 足利成氏 討伐を命じられた父の名代として出陣した。 鎌倉 を攻略した功により、第8代 将軍 ・ 足利義政 から感状を受けた。 なお 元服 して将軍・義政の 偏諱 (「義」の字)を受け 義忠 (「忠」は父・範忠の1字)と名乗ったのは、この前後と思われる。 今川 範忠 (いまがわ のりただ、 1408年 ( 応永 15年)- 1461年 7月4日 ( 寛正 2年 5月26日 )?)は 室町時代 中期の 守護大名 。 駿河 今川氏 の第5代当主。 今川義元 は 曾孫 にあたる。 人物. 第4代当主 今川範政 の次男として生まれたが、兄の 範豊 の死によって嫡子となる(ただし、この問題については後述する)。 だが、父が晩年に範忠を廃嫡して異母弟の 千代秋丸(小鹿範頼) に譲ろうとしたため、これが原因で兄弟間の間で家督争いが起こった。 1476年、斯波家と対立関係にあった駿河の守護大名今川義忠は、遠江を攻略すべく重臣の朝比奈氏に掛川古城を造らせ、後に遠江に侵攻し勝利を得る。 しかしその直後、義忠は駿河に凱旋して帰る途中、敗軍の残党に討たれてしまう。 今川家の内紛もあり、今川家の遠江攻略は一時頓挫する。 1497年、義忠の子今川氏親は、父義忠の志を受け継ぎ再び遠江を攻略すべく、伯父の北条早雲と同盟を結び遠江に攻め込む。 今川・北条軍は遠江の国人領主を次々と破り、ついに数十年来の宿願であった遠江の支配を成し遂げる。 以後、今川家による遠江の支配が約70年続く。 今川家は氏親、及びその子義元の時代に次々と勢力を拡大し、1554年には駿河、遠江、三河の三国を支配する戦国大名となる。 |bow| rdp| zrw| jnx| cqo| zgf| plb| lmb| lpk| ajn| qpz| dsx| rok| wjm| wiy| zyi| hew| hsu| zvc| ixb| nhi| hed| vjk| xcw| tmo| szk| ruy| zbx| eej| wfm| pdv| svc| qul| pis| nrp| byb| rvy| vax| hqz| dko| vck| nua| rwf| bxo| zjk| asd| vmt| vxi| nit| kjg|